REDS&日常とか〜赤くなったもん勝ち〜

DAZN通じての浦和レッズ(REDS)たまに家族日常ネタ徒然と

御父さんの戦争体験の原稿を読んだ(9/6加筆あり)

こっちで書くのです。
昨日の夜(2006/9/5)ウーの3歳の誕生日に
御父さんが講演した戦争体験の原稿を読みました。
具体的には満州からの引き揚げの様子と主題として「憲法9条を守る」
記憶で書いているので数字違っていたら御父さんすみません。
以下敬称略で書きます。

敗戦の時、御父さん8歳。その2年前に家族というか親類みんなで満州に渡ったらしい。
敗戦直後の現地盗賊の襲撃やロシア軍の統治で衣食は略奪され無くなってしまったらしい。
収容所で食料がない状態で引き揚げ許可を待った期間が1年。実際の移動(徒歩、列車、ボートで川を渡る)に3ヶ月。
体力の弱い者から死んでいったと。収容所生活では半数が亡くなったらしい。
港に行くまで。港で。船の中で。沢山死んだ。
身内だと御父さんの父さんが亡くなり、叔父、叔母が亡くなった。従兄弟は残留孤児となった。
引き揚げ途中で12歳の姉が義姉の看病で中国に残った。でまもなく2人とも亡くなったと。
日本に戻れたのはラッキーだったと。
収容所では偶然廃屋だった元醤油工場、漬物工場で寝泊りできたので
樽に残っていた僅かな麹やそういうもので死なずに済んだんだと。
講演の引用に「あしたのジョー」の作者(ちばてつや氏[引き揚げ者])の記事が使われていて。
その記事は「3歳の子がへそを見る像を作った話」でモデルになった”ともちゃん”は孤児で
母親が亡くなる前に「へそは昔母さんと繋がっていたからお母さんの事思い出すときはへそを見なさい」と言われていた。
ともちゃんがいた収容所では飢え、冬の寒さ(氷点下30度以下)、病気で孤児70人中20数人しか残らなかった。ともちゃんも冬を越せずに亡くなった。


自分の父方母方はどっちも北海道の北空知の農家で叔父さん達も戦中は子供だったから戦争の人の生き死にの話は聞いていない。
飢えの話は全然聞かなかった。戦後札幌から米を買いに来た人に服と交換したって話は聞いた。
じいちゃん達も父方はバリバリ共産党員だったから戦前戦中は牢屋に入ってた事が多かったらしく、
(稲刈りが終わると男は強制的に牢屋に入れられていたらしい。なので、ばあちゃんが小学校の先生をしていたらしい。その体験が出版されてる。)
母方は地主の家系だったから戦後土地没収されて大変だったようだけど戦争そのものの話は聞いた事ない。


私は旭川(昔は軍都と言われてて今でも自衛隊が町の真ん中にある。護国神社もある)
で生まれ育ったから歴史の時間で日露戦争の203高地?で大勢の旭川出身者が死んだとか教わったけど
授業では戦争の悲惨さは正直ピンとこない。


自分の中で戦争と言えば「火垂るの墓」で
あれを毎年放送する日本は「絶対に自分から戦争はしない」と思えるのだけど
今の状況では「巻き込まれる」ってのはあるのかもしれない。
御父さんが体験した事はアフガンとか戦争、内戦があるとこでは今もあるのだろう。


戦争反対。ウーやナーが8歳になった時、どんな生活をしてるのだろ。
今回御父さんの原稿を読んで「戦争体験の伝え方」の難しさを考えました。
御父さんのような体験者でなく、自分がどうウーやナーに伝えるかなんだけど。
例えば「長崎の原爆資料館を見て吐いた」とかもアリなのかな。